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2011年4月7日木曜日

17. “キューリー夫人傳”(エーブ・キューリー著)より “はしがき”

17. “キューリー夫人傳”(エーブ・キューリー著)より 
“はしがき

編者の言葉

エーブ・キューリー著・“キューリー夫人傳”(白水社刊)の“はしがき”の抜書きである
私は、前回ブログ上の掲載した“イレーヌ・キューリー傳”よりの抜書きに於いて、
キューリー家の長女イレーヌ・ジョリオ・キューリーの子供の視点からの考え・感じたことを掲載した。これに対し次女エーブ・キューリーはピアニスト・作家として活躍した。長女イレーヌが科学者になり母・マリーのこよなき共同研究者となったに対し、次女エーブは文筆とピアノ演奏に才能を示した。母マリーの秘書役として、病床のマリーの介護につくし最期を看取った。エーブの文体は、マリーのそれを受け継ぐのか事実を語り、言葉は実際に語られた言葉のみをを記している。淡々たる文体の中に母に対する尊敬、愛情の念が読む者の心を強く打つ。
              はしがき“  
マリー・キューリーの生涯は波瀾をきわめ、数々のエピソードに富んでいるので、何か
伝説でも語るように彼女の一生を語りたい思いに駆られる。

 彼女は女性であった。彼女は被圧迫民族に属していた。彼女は貧しかった。彼女は
美しかった。豊かな天分は、彼女をして祖国ポーランドを去って、パリに科学の研究に
行かせた。ここで彼女は孤独と艱難の幾年かを過ごした。
彼女は、彼女のように天分を抱いた一人の男に出会った。彼女は、その男と結婚した。
二人の幸せは世に、比類のない質のものであった。
熱烈をきわめた、第三者には無味乾燥と思われる努力の結果、彼らはラジウムを発見した。
彼らの発見は、一つの新しい科学、新しい哲学を誕生させたばかりでなく、難病の治療法も人類にもたらした。
 学者としての栄誉が、彼らにもたらせようとした折もおり、マリーの上にもが襲いかかった。賛嘆すべき彼女の伴侶ピエールは、彼女の手から一瞬にして,死の手に奪い取られた。心の痛手と肉体の不調にも屈せず、彼女は研究を独力で続行し、彼ら夫妻によって創造された研究を見事に発展させた。以後の余生は、人類への不断の寄与に捧げられた。
第一次大戦の負傷者に対しては、献身的活動をし自らの健康をも犠牲にした。
 晩年には、彼女の弟子や、世界中から集まった未来の学者の為に、あらゆる時間を割いて自らの知識を授け、助言を与えた。

富を拒み名誉に無関心であった彼女は、自らの使命を果たし、心身を消耗しつくして、
消えるが如くこの世を去った。

 この物語に、いささかでも修飾を加えたならば、私は罪を犯したことになるだろう。私はじぶんで確かでないものは、ただ一つとした語らなかった。私は大切な言葉の一つをも変えなかった。書かれた事実は実際にあった事であり、言葉は実際に語られた言葉である。
 私は、この書を読まれる方々が、母の生涯において最も大事なもの、即ち、確固不抜の
精神を読み取ることを希望する。それは、理知の不撓不屈の努力であり、あらゆるものを与え、何物をも取ることも、受けることさえ知らなかった精神であり、目覚しい成功も、不運逆境さえもその純真さを変えることの出来なかった魂である。このような魂を持っていたればこそ、マリー・キューリーは世の常の天才が華々しい名声から引き出す事の出来る利益を遠ざけても、なんら痛痒を感じなかったのである。

 私が、生まれたのは母が37歳の時であった。私が、母を知り得る程に成長した時、彼女は有名な老婦人になっていた。しかし“知名な学者”という感じは私にとって、縁の薄いものであった。・・自分が有名であるという観念が、彼女の頭の中になかったからに相違ない。私には、私の生まれる以前、数々の夢を抱いていた貧乏書生のマリヤ・スクロドフスカの側にいつも暮らしていたような気がする。
 母の死の瞬間が、やはり彼女の少女時代に似ていた。息を引き取った最後の日にも、無名の時と同じく優しい、一徹でしかもあらゆることに興味を感じる一女性に過ぎなかった。

彼女は田舎の墓地に、しめやかに、簡素に葬られた。



                                 エーブ・キューリー

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