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2011年4月3日日曜日

14.“ピエール・キューリー傳”第6章ノーベル賞受賞ー突然の死(文章)

   マリー・キューリー著“ピエール・キューリー傳”

     6章:ノーベル賞受賞 突然の死

1903年我々は、アンリー・ベクレルと共同で、ノーベル物理学賞を得た。然し我々の健康
状態が北欧の12月の授賞式に出席することを妨げた。漸く1905年6月にストックホルムに行くことができた。ピエール・キューリーがそこで、ノーベル賞受賞講演をした。
“我々はラジウムが罪深い人たちの手に入る時は、極めて危険であることを知る。そして我々は、果たして人類は自然の秘密を知ることが、有利なのか、又果たして人類はそれを利用するのに充分なほど進化しているのか。あるいは自然の秘密を知ることが却って、
有害になりはしないかと疑う。ノーベルの発見はその適例である。強力な爆薬は我々に驚嘆すべき仕事をできるようにした。一方それは又国民を戦争へと追いやる、罪深い人達の
手の中に於いては、破壊の恐るべき方法にもなる。私はノーベルと同様に人類が悪よりも、より多くの善を、新しい発見から見出すことを願うものである。“
                          ピエール・キューリー
(ノーベル賞受賞講演)
我々は、夏日の下で輝いているストックホルムの景色を賛美した。我々の受けた歓迎は、まことに親愛に充ちたものであった。
ノーベル賞を受賞したことにより、新聞記者・写真班さらに社交界の人間まで住居へやってきて我々の静かな時間を、かき乱すようになった。ともかくこの外部の煩わしさにも拘わらず、依然と同じように簡素な生活を続けた。1904年2番目の娘エーブ・キューリーが生まれた。上の娘イレーヌは成長し、彼女の教育に極めて深い関心を持ち、暇なときともに散歩していた彼女の父のため、小さな良い友となり始めていた。彼女のすべての問いに答えて、その若い心が次々と成長していくのを楽しみにしていた。1905年ピエール・キューリーは、パリ大学理学部の正教授に任命された。助教授の地位は私に与えられた。

19064月19日、彼は理学部の教授会の会合に出席した。この会合から出て、彼はドーフィヌ街の道を渡るところで、前から来た1台の貨物馬車を避けることができなかった。轍の下になった、頭部の内出血が致命的であった。彼がもはや帰ることのない実験室には、彼が郊外から持ち帰ったきんほうげの花がまだ瑞々しかった。
 私は、ピエール・キューリーが遺した家族の、悲しみについて記述しようとは思わない。
彼は、その子供達に、彼らを優しく愛し、彼女たちの世話をすることが極めて好きな、良き父親であった。しかし娘たちは私たちを襲った不幸を実感するにはあまりにも幼かった。彼女の祖父と私は、彼女たちの幼年時代がこの哀しみによって、暗くならないようにとあらゆる努力をした。
ここで私は、彼らの次女エーブ・キューリーが書いた“キューリー夫人傳”から引用する。
「不幸がキューリー家に押し寄せる。理科のアペル学長とペラン教授が家に入った。留守居をしていたドクトル・キューリーは、この重大な訪問を不審に思う。彼は二人に会い彼らの顔つきが転倒しているのを認める。この偉い老人は暫く彼らの顔つきを見つめていた。
そして、質問しないで、こういった。“息子が死にましたな。”椿事を物語るを聴いて、高齢の人の涙がかもし出す悲しい表情に、どっと打ち崩れた。
 6時、錠前に鍵の音。マリーが、陽気にいそいそと部屋に現れた。友人の丁重な態度の中に、哀悼のしるしを感じた。改めてアペルが事実を報告した。マリーは少しも動かず、からだがすくみ、言われたことがすこしもわからないといった様子だった。彼女は、情け深い腕の中にも泣き崩れもせず、声も立てず涙も見せなかった。長いすさまじい沈黙の後、彼女の唇がついに綻び、彼女は低い声で尋ねた。“ピエールが死んだのですって、・・・
死んだ?・・・すっかり死んでしまった?
この数分間が、私の母の性格や、その子供達の運命に決定的な影響を及ぼした。
マリー・キューリーは、幸福な若妻から慰める術のない寡婦へと、おいそれとは脱皮しなかった。マリーの胸を引き裂く内心のどよめき。彼女の乱れた頭の中の恐怖には、きつい毒を含んでいた。“ピエールが死んだ”この言葉が、彼女の意識に達した瞬間から、一枚の、孤独と秘密の法衣が、永久に彼女の肩に掛けられた。寡婦になると同時に、彼女は痛ましい、とうてい癒しえない孤独の人となった。死体が彼女の下に返ってきた。ピエールの血のついた布切れを、誰にもいじってもらってはならないのだ。彼女は死骸にくっついて離れなかった。翌日ピエールの兄ジャックがやってきた。それまで引き締まっていたマリーの気持ちが緩み、涙が滂沱と流れ落ちた。彼女はとうとう、崩れ折れ、すすり泣いた。
数週間の後、一冊の灰色の帳面に、涙に汚れたこれらのページに、彼女は息を詰まらせる切ない思いをぶちまける。この短い日記は、この婦人の生涯の最も悲壮な数時間を反映している。
“私達は、貴方を柩に納めた。その時私は、貴方の頭を支えていた。庭の夾竹桃を幾つか柩の中に。そして貴方が愛していた私の小さな肖像も。貴方が生涯を伴にしようと申し出た程、貴方のお気に召した女の子の肖像です。貴方の柩は閉められ、もう貴方のお顔は見えない。私は貴方の柩にむごたらしい黒のぼろ布を被せる事は承知しません。私は、これを花で被い、その脇に自分が座ります。


                              マダム・キューリー


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