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2011年4月10日日曜日

19. 公式サイトに特集を組みました。

19. 公式サイトに特集を組みました。

公式サイトに、本公式ブログ1に連載していた
マダム&ピエール・キューリー傳の特集を組みアップしました。

アップしたサイトは、PC&携帯への読み込みを早くしました。
また、映像(動画)は携帯でも再生できるようにしました。
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小生は、これから公式ブログ2のほうに、“人類の文化の源流を求めて”の一環として、アジア文化の柱の一つの
               “仏教の歴史”について書いていきます。

                            2011/04/10  Prof. Kubo




2011年4月7日木曜日

17. “キューリー夫人傳”(エーブ・キューリー著)より “はしがき”

17. “キューリー夫人傳”(エーブ・キューリー著)より 
“はしがき

編者の言葉

エーブ・キューリー著・“キューリー夫人傳”(白水社刊)の“はしがき”の抜書きである
私は、前回ブログ上の掲載した“イレーヌ・キューリー傳”よりの抜書きに於いて、
キューリー家の長女イレーヌ・ジョリオ・キューリーの子供の視点からの考え・感じたことを掲載した。これに対し次女エーブ・キューリーはピアニスト・作家として活躍した。長女イレーヌが科学者になり母・マリーのこよなき共同研究者となったに対し、次女エーブは文筆とピアノ演奏に才能を示した。母マリーの秘書役として、病床のマリーの介護につくし最期を看取った。エーブの文体は、マリーのそれを受け継ぐのか事実を語り、言葉は実際に語られた言葉のみをを記している。淡々たる文体の中に母に対する尊敬、愛情の念が読む者の心を強く打つ。
              はしがき“  
マリー・キューリーの生涯は波瀾をきわめ、数々のエピソードに富んでいるので、何か
伝説でも語るように彼女の一生を語りたい思いに駆られる。

 彼女は女性であった。彼女は被圧迫民族に属していた。彼女は貧しかった。彼女は
美しかった。豊かな天分は、彼女をして祖国ポーランドを去って、パリに科学の研究に
行かせた。ここで彼女は孤独と艱難の幾年かを過ごした。
彼女は、彼女のように天分を抱いた一人の男に出会った。彼女は、その男と結婚した。
二人の幸せは世に、比類のない質のものであった。
熱烈をきわめた、第三者には無味乾燥と思われる努力の結果、彼らはラジウムを発見した。
彼らの発見は、一つの新しい科学、新しい哲学を誕生させたばかりでなく、難病の治療法も人類にもたらした。
 学者としての栄誉が、彼らにもたらせようとした折もおり、マリーの上にもが襲いかかった。賛嘆すべき彼女の伴侶ピエールは、彼女の手から一瞬にして,死の手に奪い取られた。心の痛手と肉体の不調にも屈せず、彼女は研究を独力で続行し、彼ら夫妻によって創造された研究を見事に発展させた。以後の余生は、人類への不断の寄与に捧げられた。
第一次大戦の負傷者に対しては、献身的活動をし自らの健康をも犠牲にした。
 晩年には、彼女の弟子や、世界中から集まった未来の学者の為に、あらゆる時間を割いて自らの知識を授け、助言を与えた。

富を拒み名誉に無関心であった彼女は、自らの使命を果たし、心身を消耗しつくして、
消えるが如くこの世を去った。

 この物語に、いささかでも修飾を加えたならば、私は罪を犯したことになるだろう。私はじぶんで確かでないものは、ただ一つとした語らなかった。私は大切な言葉の一つをも変えなかった。書かれた事実は実際にあった事であり、言葉は実際に語られた言葉である。
 私は、この書を読まれる方々が、母の生涯において最も大事なもの、即ち、確固不抜の
精神を読み取ることを希望する。それは、理知の不撓不屈の努力であり、あらゆるものを与え、何物をも取ることも、受けることさえ知らなかった精神であり、目覚しい成功も、不運逆境さえもその純真さを変えることの出来なかった魂である。このような魂を持っていたればこそ、マリー・キューリーは世の常の天才が華々しい名声から引き出す事の出来る利益を遠ざけても、なんら痛痒を感じなかったのである。

 私が、生まれたのは母が37歳の時であった。私が、母を知り得る程に成長した時、彼女は有名な老婦人になっていた。しかし“知名な学者”という感じは私にとって、縁の薄いものであった。・・自分が有名であるという観念が、彼女の頭の中になかったからに相違ない。私には、私の生まれる以前、数々の夢を抱いていた貧乏書生のマリヤ・スクロドフスカの側にいつも暮らしていたような気がする。
 母の死の瞬間が、やはり彼女の少女時代に似ていた。息を引き取った最後の日にも、無名の時と同じく優しい、一徹でしかもあらゆることに興味を感じる一女性に過ぎなかった。

彼女は田舎の墓地に、しめやかに、簡素に葬られた。



                                 エーブ・キューリー

16. “イレーヌ・キューリー傳”:第1章よりの抜書き

16. “イレーヌ・キューリー傳”:第1章よりの抜書き

いままで本ブログ上に掲載してきたマリー・キューリー著“ピエール・キューリー傳”は、マリーが共同研究者であり人生の伴侶である夫ピエールに対する愛惜な気持ちを、抑えつつ淡々と書いてきた文章である。私は、本シリーズを締めくくるに当たって彼らの2人の娘、長女イレーヌ、次女エーブの視点から、母マリーに対しどのように接し、感じ、思っていたのか?    
ここに16,17に長女イレーヌ、次女エーブの思いが書かれた文章を抜書きすることで、本シリーズを締めくくる。16,17の2編に関しては、映像化しない。
映像化しないが、全体の文書をまとめ E-Bookの形式で発表する。

                                                2011/04/07      Prof. Kubo


5.イレーヌ・キューリー傳 (ノエル・オロオ著)
        第1章 より“ 抜書き ” 
編者の言葉
以下に掲げる文章は、“イレーヌ・ジョリオ・キューリー傳”より抜書きしたものである。
いままでブログ上に掲載してきたマリー・キューリー著“ピエール・キューリー傳”に於いて、マリーは“私は、ピエール・キューリーが遺した家族の悲しみについて記述しようとは思わない”と書いてある。まるで日本の武士の妻・母が夫あるいは息子の死骸を迎え入れたときの、内心の動揺・悲しさを抑え、凛とした毅然とした態度を想起する。
それに対し、父親の秘蔵子であった、イレーヌの子供の視点からの考え・感じたことを
皆さんに伝えたく、ここに抜書きを掲載する。元本は”Irene Joliot-Curie”(共同通信社)刊、良訳である,一読されることをお勧めする。

193474日 
この日、マリーキューリーが国葬を断った本人の意思に沿って、ソーの墓地に埋葬される。
穏やかな夏のこの日、マリーの長女である36歳の若い女性には、母の死が信じられない。母というだけでなく、協力者であり、友人であり、先生であり、憧れの的であり、不滅と信じていた、自分の生命そのもののような存在であった。
マリーより先にピエール・キューリー、祖父のウジェーヌ・キューリーが埋葬されている小さな墓地で、娘のイレーヌ・ジョリオ・キューリーは詰めかけたジャーナリストにもみくちゃにされながら、茫然自失のさまを隠さない。夫のジョリオが記者たちに自制を促している傍らで、妹のエーブと顔を合わせる。妹は、母の病気の間ずっと付き添っていた。
思春期の頃は、姉と母の会話から締め出されるのに耐えられなかった妹のエーブ。うっとりするほど美しく、ピアノと文章に才能のあるエーブ。そのエーブは激情に打ちのめされ、こらえ切れなくなっている。イレーヌは生まれた初めてエーブを羨ましく思う。
かわいい妹は、取り乱し、実に素直に深い悲しみに身を任せている。イレーヌには、身をさいなむ後悔の思いはない。母親でもあったマリー・キューリーという学者を全面的に神格化してきたからだ。自分が生きている限り喪に服し続けるつもりだ。
イレーヌには、夫と2人の幼児という愛するものがいるにしても、この日からただ独りで新たな運命と向き合わなければならないことに気づく。マリー・キューリーと切り離されながら、その死を悲しんではならないという運命なのだ。父、ピエールの死の直後から、母と娘は互いに、相手に最高のものを求めるパートナーであった。
かの若いポーランド女性は、一張羅のちんちくりんの黒いドレスでパリの駅頭に降り立ち、
カルチェラタンの屋根裏部屋で、痩せ衰えながら勉強し、最優秀で理学、数学の学士号を、
ついで教授資格を、さらに全ヨーロッパで始めての女性博士号を取得した。
マリーとピエールの出会い、ピエールの激しい一目惚れ、1895年の結婚、1897年の長女の誕生。イレーヌが自分の誕生直後について、知っている事の全ては、父方の祖父,医師の
ウジェーヌ・キューリーのおかげである。出産時にはウジェーヌ・キューリー医師が産科医の手助けに立った。赤ちゃんは金髪でばら色の肌をしており、祖父はもう赤ちゃんに夢中だ。祖父は若い夫婦とイレーヌを伴って、引っ越した。質素な一戸建てだが、子供がのびのびと育つのに適した庭付きの家である。事実伸び伸び育つイレーヌ。赤ちゃんの時からイレーヌは要求の激しい、育て難い子であった。イレーヌが育っている知的環境には、
すてきなおじいちゃんと家政婦が付き添っている。然し彼女がほしがるのは母親の存在である。イレーヌは、マリーがそばに来てキスしてくれない限り、眠ろうとはしない。娘のベットの上にかがみこんで、マリーが娘に聞かせる物語は、“赤頭巾ちゃんの物語”ではなく、若いポーランド女性が四等の座席で三日間を過ごしてパリに降り立つ物語、貧しい
学費で科学を学ぶために留学してくる物語である。イレーヌは強い感銘を受けて、祖父に
読み書きを教えてほしいと頼むのだった。孫の様子を注意深く観察しているウジェーヌ・
キューリー医師は、イレーヌのささやかな願いや、留守がちな両親に向ける反発にも耳を傾けてやる。彼はイレーヌが苦しんでいる愛情不足を埋め合わせてやろうと、自分の好きなビクトル・ユーゴーの詩を読んで聞かせたり、ピエールの子供時代の話をしてやったりする。ピエールは、今のイレーヌと同じように、利かぬ気の子供だったし、その性格は今も持ち続けている。
イレーヌが尋ねる“ママときたら、昼も夜も、私が眠っている夜でも研究所に行くんだから” イレーヌの苦悩のタネは、ここにある。彼女の大敵はモーロン街の研究所だ。母が研究のため使うウラン鉱石もそうだ。研究ってなんの役に立つのだろう?イレーヌは、
それを知りたいのだ。イレーヌは、もっと知りた。キューリー医師はイレーヌに向かって、
貴方のママは研究の道を選んだのだと説明しが、イレーヌは少しも聞こうとはしない。
早熟だが、強情な子である。とうとう根負けした祖父は、ある日モーロン街の研究所に連れて行く。マリーが夏は灼熱、冬は氷のように冷たい倉庫の中で、勇気を振り絞って働いている姿を見せることで、孫を納得させようと。この倉庫はノーベル賞受賞後に、世界中の新聞に写真が掲載され、神話的な存在になる。イレーヌはあきれる。彼女の両親は自宅の庭でイレーヌと過ごすより、こんなおんぼろの建物の中で一日の大半を過ごす事を好むなんて。もっと悪いことに、ママは朝、顔を洗ってふっくらした髪を整えたときはとても
美しいのに、ここでは疲れきった顔つきで、髪も乱れた姿だ。ママの両手は、パパの両手と同様、赤くなっている。ママの黒いドレスは、ほこりで白っぽくなっている。
いや、どうしてもいや!イレーヌには理解できない。“

                         イレーヌ・ジョリオ・キューリー

2011年4月3日日曜日

15.“ピエール・キューリー傳”第6章受賞ー突然の死(映像)

15.“ピエール・キューリー傳”第6章受賞ー突然の死(映像)


YouTubeに投稿した時の、コメントです
作品番号105_“ピエール・キューリー傳”第6章:ノーベル賞受賞ー突然の死
The Life of Pierre Curie: Chapter 6 "Win the Nobel Prize and Suddenly Death"
本作品が“ピエール・キューリー傳”の最終章です。
This work is the last chapter of " The Life Of Pierre Curie"
私は、若い世代の方々に有益であることを望みます。
I hope, these works are usuful to your young gen
  2011/04/02   Prof. Kubo

14.“ピエール・キューリー傳”第6章ノーベル賞受賞ー突然の死(文章)

   マリー・キューリー著“ピエール・キューリー傳”

     6章:ノーベル賞受賞 突然の死

1903年我々は、アンリー・ベクレルと共同で、ノーベル物理学賞を得た。然し我々の健康
状態が北欧の12月の授賞式に出席することを妨げた。漸く1905年6月にストックホルムに行くことができた。ピエール・キューリーがそこで、ノーベル賞受賞講演をした。
“我々はラジウムが罪深い人たちの手に入る時は、極めて危険であることを知る。そして我々は、果たして人類は自然の秘密を知ることが、有利なのか、又果たして人類はそれを利用するのに充分なほど進化しているのか。あるいは自然の秘密を知ることが却って、
有害になりはしないかと疑う。ノーベルの発見はその適例である。強力な爆薬は我々に驚嘆すべき仕事をできるようにした。一方それは又国民を戦争へと追いやる、罪深い人達の
手の中に於いては、破壊の恐るべき方法にもなる。私はノーベルと同様に人類が悪よりも、より多くの善を、新しい発見から見出すことを願うものである。“
                          ピエール・キューリー
(ノーベル賞受賞講演)
我々は、夏日の下で輝いているストックホルムの景色を賛美した。我々の受けた歓迎は、まことに親愛に充ちたものであった。
ノーベル賞を受賞したことにより、新聞記者・写真班さらに社交界の人間まで住居へやってきて我々の静かな時間を、かき乱すようになった。ともかくこの外部の煩わしさにも拘わらず、依然と同じように簡素な生活を続けた。1904年2番目の娘エーブ・キューリーが生まれた。上の娘イレーヌは成長し、彼女の教育に極めて深い関心を持ち、暇なときともに散歩していた彼女の父のため、小さな良い友となり始めていた。彼女のすべての問いに答えて、その若い心が次々と成長していくのを楽しみにしていた。1905年ピエール・キューリーは、パリ大学理学部の正教授に任命された。助教授の地位は私に与えられた。

19064月19日、彼は理学部の教授会の会合に出席した。この会合から出て、彼はドーフィヌ街の道を渡るところで、前から来た1台の貨物馬車を避けることができなかった。轍の下になった、頭部の内出血が致命的であった。彼がもはや帰ることのない実験室には、彼が郊外から持ち帰ったきんほうげの花がまだ瑞々しかった。
 私は、ピエール・キューリーが遺した家族の、悲しみについて記述しようとは思わない。
彼は、その子供達に、彼らを優しく愛し、彼女たちの世話をすることが極めて好きな、良き父親であった。しかし娘たちは私たちを襲った不幸を実感するにはあまりにも幼かった。彼女の祖父と私は、彼女たちの幼年時代がこの哀しみによって、暗くならないようにとあらゆる努力をした。
ここで私は、彼らの次女エーブ・キューリーが書いた“キューリー夫人傳”から引用する。
「不幸がキューリー家に押し寄せる。理科のアペル学長とペラン教授が家に入った。留守居をしていたドクトル・キューリーは、この重大な訪問を不審に思う。彼は二人に会い彼らの顔つきが転倒しているのを認める。この偉い老人は暫く彼らの顔つきを見つめていた。
そして、質問しないで、こういった。“息子が死にましたな。”椿事を物語るを聴いて、高齢の人の涙がかもし出す悲しい表情に、どっと打ち崩れた。
 6時、錠前に鍵の音。マリーが、陽気にいそいそと部屋に現れた。友人の丁重な態度の中に、哀悼のしるしを感じた。改めてアペルが事実を報告した。マリーは少しも動かず、からだがすくみ、言われたことがすこしもわからないといった様子だった。彼女は、情け深い腕の中にも泣き崩れもせず、声も立てず涙も見せなかった。長いすさまじい沈黙の後、彼女の唇がついに綻び、彼女は低い声で尋ねた。“ピエールが死んだのですって、・・・
死んだ?・・・すっかり死んでしまった?
この数分間が、私の母の性格や、その子供達の運命に決定的な影響を及ぼした。
マリー・キューリーは、幸福な若妻から慰める術のない寡婦へと、おいそれとは脱皮しなかった。マリーの胸を引き裂く内心のどよめき。彼女の乱れた頭の中の恐怖には、きつい毒を含んでいた。“ピエールが死んだ”この言葉が、彼女の意識に達した瞬間から、一枚の、孤独と秘密の法衣が、永久に彼女の肩に掛けられた。寡婦になると同時に、彼女は痛ましい、とうてい癒しえない孤独の人となった。死体が彼女の下に返ってきた。ピエールの血のついた布切れを、誰にもいじってもらってはならないのだ。彼女は死骸にくっついて離れなかった。翌日ピエールの兄ジャックがやってきた。それまで引き締まっていたマリーの気持ちが緩み、涙が滂沱と流れ落ちた。彼女はとうとう、崩れ折れ、すすり泣いた。
数週間の後、一冊の灰色の帳面に、涙に汚れたこれらのページに、彼女は息を詰まらせる切ない思いをぶちまける。この短い日記は、この婦人の生涯の最も悲壮な数時間を反映している。
“私達は、貴方を柩に納めた。その時私は、貴方の頭を支えていた。庭の夾竹桃を幾つか柩の中に。そして貴方が愛していた私の小さな肖像も。貴方が生涯を伴にしようと申し出た程、貴方のお気に召した女の子の肖像です。貴方の柩は閉められ、もう貴方のお顔は見えない。私は貴方の柩にむごたらしい黒のぼろ布を被せる事は承知しません。私は、これを花で被い、その脇に自分が座ります。


                              マダム・キューリー