9.マリー・キューリー著 “ピエール・キューリー傳” 本文
第4章:結婚と家庭生活の形成
公式ブログ1:投稿原稿 分野:物理学 2011/03/23
4. 物理学史-2:
マリー・キューリー著、湯浅年子訳 “ピエール・キューリー傳”本文
私は、この“ピエール・キューリー傳”本文をBlog1に公開する事をためらっていた。
それは2つの理由からである。第1番には、この本が自然科学の研究者には、何よりも
尊い書となるが、文科系を目指す若者、一般の人たちに読まれるのだろうかとの疑問。
2番目には、本としては日本文で130ページ程度の小冊子であるが、Blog上に掲載
するには長過ぎる。するならば、PDFファイルにし、E-Bookの形式にしなければ読者
が読まないだろうとの懸念を抱いたからである。
しかし、その戸惑いを振り払いWeb上に発表することを、決断した。
その理由は、現在手にしているこの小冊子がばらばらに分解しつつあることである。
背表紙はとれ各ページの紙の繊維が、ぱらぱらと剥げ落ちる有様である。この研究者
にとって尊い小冊子を、電子記録として保存し、後学の人たちに役立つことを願い
仕事を進める事にした。
ここでは、第四章:結婚と家庭生活の形成――人格と生活 を紹介する。
私は、ピエール・キューリーと1894年の春、初めて会った。当時私は、パリに来て3年
来住んでいて、ソルボンヌで勉強を続けていた。
ここに簡単な私の経歴を掲げる。
私の名は、マリー・スクロドウスカ Marie Sklodowska である。父母はポーランドの
カトリック教徒の家に属している。二人ともワルソーの中等学校で教鞭をとっていた。(
当時ワルソーはロシア領ポーランドであった)私は、ワルソーに生まれて高等中学校を
そこで終えた。ついで私は、二、三年教鞭をとり、ついで1892年にパリに科学を学ぶべく
来た。私は、物理学士試験を通っていた。そして数学の学士試験準備をしていた。同時に
私はリップマン教授の研究室で研究を始めていた。ある夕べ、ピエール・キューリーを
尊敬しているポーランド人の物理学者で、かつ私の知人が私を招待した。
私が部屋に入ったとき、彼・ピエール・キューリーはバルコニーに向いた窓のところに
いた。
彼は極めて若く見えた。当時彼は35歳であるにも拘らず。私は彼の明らかな瞳と彼の
丈高い姿に表れた、やや放心したような外観に打たれた。彼の少し遅い考え考えの話し
方、素直さ、厳かでありながら同時に若々しい笑ひ方が私に信頼を持たせた。
私達の間に会話が交わされ、やがて私達は親しく話しあい始めた。それは科学に関す
るもので、それについての彼の意見を聞くことは真に幸福であった。彼のものの考え方
と私のそれとの間には、二人が国籍を異にしているにも拘らず、驚くべき近次点があっ
た。之はたぶん一つには二人が育った家庭の雰囲気に共有なものがあるが故であろう。
私達は、再び物理学会や実験室で会った。
ついで彼は、私を訪問したいと望んだ。私は当時、学校街の一軒の家の6階に一部屋を
借りて住んでいた。それは貧しい住居であった。何故なら私の収入はきわめて僅少で
あったから。しかにながら私はとても幸福であった。25歳で漸く長年の希望である
科学の深い研究を実現することが出来たから。
ピエール・キューリーは、わたしの労働者のような生活へ、真面目な好意をもって訪
ねてくれた。やがて彼は、科学研究に捧げた彼の生涯の夢を、私に語るようになった。
やがて彼は私に、彼の生活の伴侶となることを乞うた。しかし私にとってかかる決心を
することは容易ではなかった。何故なら私は、自分の祖国と家から離れなければならず、
私にとって大切であった社会的活動の計画を放棄しなければならなかったから。祖国
ポーランドへのロシアの圧制に対し、同胞の若い青年達と同じように愛国精神を持ち
続けたいと思っていた。
休暇のために、ポーランドの父の下に私がパリを離れようとするときには、事態はこの
ような状態であった。彼は夏の間、私にすばらしい数々の手紙を書いた。そのどれもが
長くはないが、真摯な態度で書かれている。文章の質自体が、私には稀に見るものの
ように思えた。なんびといえども彼のように、短い言葉の中に精神状態を、面目躍如と
させる事の出来る者はいないと思う。
ここに彼が、結婚について如何に考えていたかを示す、手紙の数行を掲げることを
適切だと思う。
「私たちは約束した(そうでしょう?)お互いに大いなる友情を持つことを。貴女の
気持ちがお変わりにならない限りは! もし我々の一人が、もう一方の一人と伴に
生涯を送り、我々の夢、貴女の愛国的夢、我々の人類愛的夢と科学的夢の中に陶酔
する事が出来たらなんという素晴しいことでしょう。我々は社会的状態を変えるには
無力です。之に反して科学に於いては我々は、何かすることが出来ると信じられます。
私は貴女に十月に再びパリに戻られるよう忠告します。もし貴女が今年こられなかった
ら私は大変悲しい。私は貴女がここでよりよく勉強が出来、より役立つと信じるから
です。」
彼はその生涯を彼の科学研究に捧げた。彼には同じ夢に生きる伴侶が必要だった。
1895年7月25日結婚式が行われた。儀式は簡素に行われた。彼の両親は、私を極めて
親しく受け入れてくれた。私たちの新家庭は、極めて質素で物理学校から遠くない小さ
な住居であった。家具はきわめて簡単なもので、彼の両親のものであった。我々の収入
では買うことが許されなかった。それ故私は、殆ど学生時代に得た習慣でもって、家政
を切り回して行かなければならなかった。私たちの生活は、完全に科学のために計画
された。そして私たちの一日は、夫と共に働くことを許された、実験室で過ごした。
我々の休暇は、徒歩又は自転車旅行に費やされた。我々はフランスと山々を、沿岸を、
またフランスの大森林を走り回った。この大気の下の美しい風景に触れた日々は、
我々に後々まで思い出す深い印象を与えた。
マダム・キューリー