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2011年3月31日木曜日

13. “ ピエール・キューリー傳:第5章・ラジウムの発見” (映像)

13. “ピエール・キューリー傳:第5章・ラジウムの発見” (映像)


2011/03/31   Prof. Kubo

12. マリー・キューリー著:“ピエール・キューリー傳”第5章・ラジウムの発見(文書)

12. マリー・キューリー著:“ピエール・キューリー傳”
第5章・ラジウムの発見(文書)

私たちの娘イレーヌは、9月に生まれた。産褥から起きて、私は学位論文の準備のため
実験室の仕事をはじめた。我々の注意はアンリ・ベクレルによって発見された奇妙な現象に引かれた。ウラニウム塩から特別な性格を有する輻射線が放射されていることである。
これが放射線(放射能)の発見であった。この輻射エネルギーがどこから来るのかという
問題が起こってくる。それはまことに僅少なエネルギーであるが、常に輻射線の形で放出される。私は、この現象を学位論文の題目にすることにした。
これらの実験する装置を設置する場所が必要になってきた。ピエール・キューリーは、物理化学学校の校長から、地階にある物置兼機械室に使用されていた室の使用を許可された。
この輻射線の研究において、測定にもっとも適していると思える現象は、ウラニューム線
による空気に引き起こされた伝導性・イオン化現象である。このイオン化された空気中に通じる電流を測定する装置は、ピエールとジャック・キューリーによって研究・開発された装置である。したがって装置はキューリーのピエゾ電気計とイオン室からなる。この電気的装置は、湿気の多い、雑然とした場所には全く不適当であった。
私の実験はウラン化合物の放射線は、定まった条件の下に正確に測定されることを示した。そしてこの放射線がウラニウム元素の原子的性格であることを。その強度はウラニウム
化合物中のウラニウムの量に比例する。この新しい現象を定義する新しい術語が必要になった。私は放射性(現在では、放射能、放射線が使われている)なる名を提案し、以来この名が使われている。
私は、多数の鉱物を調べた。ウラニウム及びトリウムを含んでいる鉱物の放射性は、極めて異常に見えた。何故ならウラニウム及びトリウムの含有量から予想されるより、放射性がはるかに強かった。この異常性は私たちに極めて大なる驚異を与えた。それが実験誤差でないことが明らかになった。私はひとつの仮説を立てた。即ちウラニウム及びトリウム
鉱石は、はるかに強い放射性物質を含んでいるという仮説である。この物質は既知の元素ではありえなかった。何故ならこれらの全ては既に調べられたから。それゆえこの元素は新しい元素でなければならない。この仮説をできるだけ速やかに確かめることが有利であった。この問題に強く興味を引かれたピエール・キューリーは新しい物質の研究のため
私と一緒に研究することにした。選ばれた鉱石はピッチブレッドであった。これはウラン鉱石で、この鉱石の組成はかなり詳しく化学分析によって知られていた。
私たちの用いた方法は、化学的に分離された全ての物質の放射性を測定することであった。
やがて我々は、二つの新らしい放射性物質が在ることを知るに至った。即ちポロニウムと
ラジウムである。我々は、18987月、ポロニウムの存在を発表した、同年12月には
ラジウムの存在を。我々の考えでは、そこになんらの疑いもなく新元素があった。しかしこの考えを化学者たちに認めさせるには、これらの元素を分離しなければならなかった。
我々の仕事のこの時期こそ、適した場所、資力、人力がないことが極めて不利であった。
特に大事なのは、化学的処理をやる場所の問題であった。我々は、電気的装置の設置してある工作室と、中庭を隔てて離れている物置の中で化学的処置をしなければならなかった。
それは木造のバラックで、泥の床と雨漏りする天井であった。使い古された机、鋳物のストーブ、ピエール・キューリーが非常に愛していた黒板、それらがそこに在る全てであった。有毒ガスを排出するための煙突もなく、それ故に天気の時には中庭でこれらの処理をなし、雨降りのときは窓を開け、室内でしなければならなかった。この実験室でほとんど
助け無しに2年間研究した。ついで我々は分担して研究を進めることにした。ピエール・キューリーは、ラジウムの性質に関する研究を続けた。私は純粋なラジウム塩を得るために化学的処理を続けた。物置は沈殿物及び液体の入った容器で満員になった。数時間鉄の棒で鋳鉄容器の中で沸騰している物質を攪拌する作業は、真に根の尽きる仕事であった。
ラジウムは最不溶性の部分に集まった、ここから純粋な塩化ラジウムの分離をしなければならなかった。この最後の結晶法の操作は、不完全な実験室では相当困難であった。何故なら鉄粉や石炭の粉がまったく入らないようにするわけには行かなかったから。1年後には、純粋なラジウム塩の分離に成功した。1899年から1900年にかけ、ピエール・キューリーは私と共同でラジウムの放射性の発見に関する論文を発表した。さらに1900年にはパリで
開かれた物理学会のために、新しい放射性物質及び放射線に関する一般報告を発表した。
ラジウムの放射線が3つの異なる放射線束を放射している。陽電荷に帯電している高速度の粒子線(アルファー線)、二番目のは遥かに小さく負に帯電している(ベーター線)、第3番はガンマー線である。ラジウムの生成物が、皆発光性なのを眺めて大変うれしかった。
我々は、不十分な研究条件にも拘わず幸福であった・我々の日々はこの実験室で過ぎた。しばしば我々は学生のように極めて簡単に実験室で昼食を取った。我々の貧しい物置に大いなる静けさが支配してた。我々は、何かの操作の番をしながら現在及び未来の仕事の話をしながら室内を散歩した。寒いときには、ストーブの横で熱い一杯のお茶を飲んで暖を取った。我々は夢の中のように共同の専念の中にいた。時には夕食の後で我々の実験結果
を見る為引返すことがあった。我々の生成物は机及び棚の上に置いてあった。四方四面に弱光を放っている彼らの姿を見ることができた。この闇の中に懸けられているようなこの光が、我々に常に変わらぬ感激と魅惑を与えた。


                            マダム・キューリー

2011年3月23日水曜日

9.マリー・キューリー著 “ピエール・キューリー傳” 本文第4章:結婚と家庭生活

9.マリー・キューリー著 “ピエール・キューリー傳” 本文
第4章:結婚と家庭生活の形成


公式ブログ1:投稿原稿  分野:物理学                       2011/03/23
4. 物理学史-2
マリー・キューリー著、湯浅年子訳 “ピエール・キューリー傳”本文
私は、この“ピエール・キューリー傳”本文をBlog1に公開する事をためらっていた。
それは2つの理由からである。第1番には、この本が自然科学の研究者には、何よりも
尊い書となるが、文科系を目指す若者、一般の人たちに読まれるのだろうかとの疑問。
2番目には、本としては日本文で130ページ程度の小冊子であるが、Blog上に掲載
するには長過ぎる。するならば、PDFファイルにし、E-Bookの形式にしなければ読者
が読まないだろうとの懸念を抱いたからである。
しかし、その戸惑いを振り払いWeb上に発表することを、決断した。
その理由は、現在手にしているこの小冊子がばらばらに分解しつつあることである。
背表紙はとれ各ページの紙の繊維が、ぱらぱらと剥げ落ちる有様である。この研究者
にとって尊い小冊子を、電子記録として保存し、後学の人たちに役立つことを願い
仕事を進める事にした。

ここでは、第四章:結婚と家庭生活の形成――人格と生活 を紹介する。

私は、ピエール・キューリーと1894年の春、初めて会った。当時私は、パリに来て3年 
来住んでいて、ソルボンヌで勉強を続けていた。
ここに簡単な私の経歴を掲げる。
私の名は、マリー・スクロドウスカ Marie Sklodowska である。父母はポーランドの
カトリック教徒の家に属している。二人ともワルソーの中等学校で教鞭をとっていた。(
当時ワルソーはロシア領ポーランドであった)私は、ワルソーに生まれて高等中学校を
そこで終えた。ついで私は、二、三年教鞭をとり、ついで1892年にパリに科学を学ぶべく
来た。私は、物理学士試験を通っていた。そして数学の学士試験準備をしていた。同時に
私はリップマン教授の研究室で研究を始めていた。ある夕べ、ピエール・キューリーを
尊敬しているポーランド人の物理学者で、かつ私の知人が私を招待した。
私が部屋に入ったとき、彼・ピエール・キューリーはバルコニーに向いた窓のところに
いた。
彼は極めて若く見えた。当時彼は35歳であるにも拘らず。私は彼の明らかな瞳と彼の
丈高い姿に表れた、やや放心したような外観に打たれた。彼の少し遅い考え考えの話し
方、素直さ、厳かでありながら同時に若々しい笑ひ方が私に信頼を持たせた。
私達の間に会話が交わされ、やがて私達は親しく話しあい始めた。それは科学に関す
るもので、それについての彼の意見を聞くことは真に幸福であった。彼のものの考え方
と私のそれとの間には、二人が国籍を異にしているにも拘らず、驚くべき近次点があっ
た。之はたぶん一つには二人が育った家庭の雰囲気に共有なものがあるが故であろう。
私達は、再び物理学会や実験室で会った。
ついで彼は、私を訪問したいと望んだ。私は当時、学校街の一軒の家の6階に一部屋を
借りて住んでいた。それは貧しい住居であった。何故なら私の収入はきわめて僅少で
あったから。しかにながら私はとても幸福であった。25歳で漸く長年の希望である
科学の深い研究を実現することが出来たから。
ピエール・キューリーは、わたしの労働者のような生活へ、真面目な好意をもって訪
ねてくれた。やがて彼は、科学研究に捧げた彼の生涯の夢を、私に語るようになった。
やがて彼は私に、彼の生活の伴侶となることを乞うた。しかし私にとってかかる決心を
することは容易ではなかった。何故なら私は、自分の祖国と家から離れなければならず、
私にとって大切であった社会的活動の計画を放棄しなければならなかったから。祖国
ポーランドへのロシアの圧制に対し、同胞の若い青年達と同じように愛国精神を持ち
続けたいと思っていた。
休暇のために、ポーランドの父の下に私がパリを離れようとするときには、事態はこの
ような状態であった。彼は夏の間、私にすばらしい数々の手紙を書いた。そのどれもが
長くはないが、真摯な態度で書かれている。文章の質自体が、私には稀に見るものの
ように思えた。なんびといえども彼のように、短い言葉の中に精神状態を、面目躍如と
させる事の出来る者はいないと思う。
ここに彼が、結婚について如何に考えていたかを示す、手紙の数行を掲げることを
適切だと思う。
「私たちは約束した(そうでしょう?)お互いに大いなる友情を持つことを。貴女の
気持ちがお変わりにならない限りは! もし我々の一人が、もう一方の一人と伴に
生涯を送り、我々の夢、貴女の愛国的夢、我々の人類愛的夢と科学的夢の中に陶酔
する事が出来たらなんという素晴しいことでしょう。我々は社会的状態を変えるには
無力です。之に反して科学に於いては我々は、何かすることが出来ると信じられます。
私は貴女に十月に再びパリに戻られるよう忠告します。もし貴女が今年こられなかった
ら私は大変悲しい。私は貴女がここでよりよく勉強が出来、より役立つと信じるから
です。」
彼はその生涯を彼の科学研究に捧げた。彼には同じ夢に生きる伴侶が必要だった。

1895725日結婚式が行われた。儀式は簡素に行われた。彼の両親は、私を極めて
親しく受け入れてくれた。私たちの新家庭は、極めて質素で物理学校から遠くない小さ
な住居であった。家具はきわめて簡単なもので、彼の両親のものであった。我々の収入
では買うことが許されなかった。それ故私は、殆ど学生時代に得た習慣でもって、家政
を切り回して行かなければならなかった。私たちの生活は、完全に科学のために計画
された。そして私たちの一日は、夫と共に働くことを許された、実験室で過ごした。
我々の休暇は、徒歩又は自転車旅行に費やされた。我々はフランスと山々を、沿岸を、
またフランスの大森林を走り回った。この大気の下の美しい風景に触れた日々は、
我々に後々まで思い出す深い印象を与えた。
                      マダム・キューリー

2011年3月15日火曜日

8.マダム・キューリー著・湯浅年子訳“ピエール・キューリー傳・序文” (映像)

8.マダム・キューリー著・湯浅年子訳“ピエール・キューリー傳・序文”
2011/03/15     Prof. Kubo



7.自分と物理学との出逢い(映像)

6.自分と物理学との出逢い(映像)
私が物理学の研究に志したには、一冊のぼろぼろの小冊子との出逢いであった。作品番号6,7とに映像をアップしておきます。
                 2011/03/15   Prof. Kubo


2011年3月13日日曜日

5. ピエール・キューリー・ノーベル賞受賞講演、マダム・キューリーの序文

ピエール・キューリー・ノーベル賞受賞講演
吾等はラジウムが罪深い人たちの手に入るときは、きわめて危険であることを知る。
そしてここに於いて、吾等は果たして、人類は自然の秘密をより多く知る方が有利か、又果たして人類はそれを利用するに十分な程進化しているのか、あるいは、この知ることが却って有害になりはしないかと疑う。ノーベルの発見はその適例である。強力な爆薬は我々に驚嘆すべき仕事をなさしめた。一方それは又国民をして戦争へと追いやる、罪深い人達の手中に於いては、破壊の恐るべき方法である。私はノーベルと同様に、人類が悪よりも多くの善を、新しい発見から見出すことを希ふものである。
                                              ピエール・キューリー

   マダム・キューリー・“ピエール・キューリー傳”序文
ピエール・キューリーの伝記を書くことを、私はためらいつつ引き受けた。私は、むしろこの仕事を彼の傍らにあって、彼の幼年時代及び前後を熟知している彼の親類、又は彼の
兄であり少年時代の好伴侶であって、温かい愛情で結びついているジャック・キューリーは、彼がモンペリエ大学へ任命されてから離れて生活していたとの理由で、この任を引き受け得ないと思っている。従って彼は最も良く彼の弟の生涯を知り、了解しうる者は、私を措いて他にいないと考え、私に彼の伝記を書くことを強く勧めるのであった。彼は集め得たすべての個人的思い出を私に提供した。この重大な資料に、私は夫によって語られた細かい点を付加した。かくして私は、私が直接知らない時代の彼の生涯の部分を再建設した。他方私は、私達の一緒に過ごした年月の間に、彼の人格から得たところの深い印象を忠実に再現することを試みた。
この小編は決して完全なものではないだろう。しかしながら私は、ピエール・キューリー
について、この小冊子の与える像が、少しも歪められていないで、彼の思い出を保つための一助となることを希つている。更に私は彼を知っている人達に対して、彼らが彼を愛する所以を見出しさしめることも希つている。

                           マダム・キューリー

2011年3月12日土曜日

4.分野:古典物理学 物理学史ー1“ピエール・キューリー傳” 訳者の言葉

公式ブログ1:投稿原稿  分野:古典物理学                    2011/03/12
4. 物理学史-1:
マリー・キューリー著、湯浅年子訳 “ピエール・キューリー傳”
この序文・“訳者のことば・母に捧ぐ (1945.10.9)”を紹介する。
小生は、1942.12月に東京・四谷に生まれた。小学校に上がり、文字が読めるようになる
と母からもらった小遣いを貯め、それを手に握り締め、下駄を履いて、市谷、靖国神社、
九段下と都電の線路沿いに神田の古本屋街に通った。多くは岩波文庫の寺田虎彦、中谷
宇吉郎、湯川秀樹、友永振一郎という日本の物理学を切り開いた先生方の随筆であった。
ある日とある古本屋の片隅で、一冊のぼろぼろの小冊子を見つけた。それが
マリー・キューリー著、湯浅年子訳 “ピエール・キューリー傳”である。この本を読
終えた時、私は、子供心に物理学を一生学び続けようと決めた。この小冊子は、私に
とっての聖書である。

        マリー・キューリー著、湯浅年子訳
           “ピエール・キューリー傳
“訳者のことば・母に捧ぐ (1945.10.9)”湯浅年子

1941年の323日は私にとって忘れることの出来ない日である。フランスに留学して初め
ての研究論文を書き終えてコレジ・ド・フランスの核化学研究所の門を出た私は、パリ
特有の美しい黄昏時、物皆が金色に、やがて紫色に映える美しい夕暮れを、久しぶりに
軽いほのぼのとした気持ちでセーヌ川に沿って散歩したのだった。故国に病む父もきっと
この研究の成果を喜んでくれるであろう、と思いながら・・・・・  しかしその日、私の帰りを待っていたものは、日本からはるばる伝えられた父の訃報であった。必ず帰国を待っている、との書信を得て一月と経っていなかった。私は生きて行く自信を失った。翌日研究所で、私は指導を受けていた研究所長のジョリオ教授の前に帰国の許しを乞うた。
教授は静にしかし厳かにいわれた。「今まで貴女に戦争の危険を考えて帰国を勧めたこともあった。しかし今こそ私はあなたに命令する。ここに止まって研究に精進するように。
今日も悲しみのために仕事を中止してはいけない。そして明日は土曜日だからお昼から家に来てマダム・ジョリオと一緒に一日お過ごしなさい。」
この言葉は私の研究への希望、父の死によって雲散霧消してして、しまったと見えた科学への愛着を再び強くよみがえさせた。「研究に精進しよう、生きている限りは」と漸く思い直した私は、しかしなお暗い心でマダム・ジョリオを訪れた。その時である、マダム・
ジョリオが静に私の手に渡して下さった本こそ、今ここに訳出した「ピエール・キューリー傳」である。父君であるピエール・キューリーを早く喪われた、然も、父君の秘蔵子であったマダム・ジョリオが、三十有余年の永い年月、耐えてこられた父君への追慕の情の、
如何に苦しいものであったかを知り得て、私の心は漸く僅かに和むことを得たのだった。
帰宅後、夜を徹して之を読了した私は、マダム・キューリーが、自ら私にこの伝記を語られているような錯覚を起こした。科学者らしい、率直な、地味な、謙虚な叙述の中に秘められた、複雑な、熱烈な、高邁な魂の、その突然奪われた半身にたいする愛慕と、崇敬の記述であるといふ強い感動をもって、一言隻句をも逃さじと読み進んだのである。
読み終えて私は、洗い清められたような清清しさの裡にあった。
悲しみに徹して研究に精進することの尊さを感得したと思った。その時以来、私は幾度この尊い小冊子を読み返して心の聖書としたことであろう。まことに、之は科学者の聖典である。又科学教育の正しき方向を示す教典である。そして又この上なく美しい人生と、
愛情との書である。私はキューリー夫妻の場合程、美しい二つの人格の融合は、世にも珍しいと思うのである。また之程激しい熱烈な愛情――科学に対して又人間に対して――はその例が少ないであろうと思う。
日本に帰ったら必ず訳して多くの人に読んでほしいとこの時以来思っていた。
世界を動乱と悲惨の中に陥れた大戦は、私どもにとってまことに悲しい終局をもたらした。
敗北の一歩手前に追い込まれた祖国をさして、昨年六月帰国を急ぐ私の胸の中には、祖国の母の健在と、祖国の同胞と運命を共にすること以外の希望はなかった。
その母は再会の喜びを二十日間分つたのみで他界してしまった。祖国は敗れた。私は母の霊を祀るべき家も手段もなかった。七十有余年の生涯を子供達の為にのみ、ひたすら捧げてくれた母に手向ける香華もなかった。何をもってその霊を安んじればよいか、考え続けた私は、この、私にとって何物より尊い書を訳出して、私にとってかけがえのない愛する母への手向草にしようと決心した。私は母の七七忌に之を訳了して、心ばかりの母への
供養とした。このあまりに個人的感情をマダム・キューリーの又ピエール・キューリーの偉大さの前に恥ずかしく思うのであるが、きっと夫妻はこの気持ちを、諒とされるであろうと堅く信じている。そして私と同じように、小さい色々の苦しみにつまづきよろめきながら、しかもなほ科学への愛情を断ちがたく思う数多くの人に、この書が勇気を与え、高きに導き、静かな喜びを与えんことを希つてやまない。
                  昭和二十二年二月      湯浅 年子
                                                   2011/03/12    Prof. Kubo